春望

TAKEZOです

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写真:福島・三春滝桜の公式サイトから



東北地方にも桜前線はやってきた。人々に恐怖の鉄槌を下した自然の猛威とは

りにも裏腹な光景だが、しずかに忍び寄るような春の到来だ。廃墟に草が茂り、里山のやま桜が芽吹き、せせらぎが始まり、小川がながれ、まわりで鳥や虫が鳴くようになれば、それは生態系が途絶えることがなかった証になる。数千年もの間、繰り返されてきた天災や戦乱からの諦観から、死生観と無常を負いながら人が自然と共生して生きてきた長い歴史を物語っている。



国破山河在 城春草木深

感時花濺涙 恨別鳥驚心

烽火連三月 家書抵万金

白頭掻更短 渾欲不勝簪



「春望」 杜甫がこれを詠んだのは1200年も前、世界でも稀れに栄えた長安の都でのことだ。安史の乱で都はずたずたに切り刻まれたことがあった。国破れて山河あり、の解釈は国の敗戦を意味しないそうだ。国の統治が無くなり治安も秩序も混乱している様をさしている。唐の隆盛の時代から玄宗皇帝と楊貴妃が織り成した頃の都の様子はさぞや艶やかであったろう。しかもそれ故の凋落と滅亡も同じ長安を舞台にしている。狂ったような戦乱はその都を跡形のないほどに破壊したのだろう。人の営みの無常にくらべて、自然の変わらぬ生命力が詠われている。



漢詩の碩学、吉川幸次郎の解釈はこうだ。



「時」とは、時世のありさまをいう。時世のありさまに悲しみを感じて、花見心を

いためるであろうか、涙をこぼすように、はらはらと散る。また人人がちりぢりになってしまった不安な空気の中では、鳥のなき声も何となく不安げである。かく涙を濺ぐのは花であり、心を驚かすのは鳥であるとして、吉川はこの聯を読みたい。今の中国語にも「驚心吊膽」という言葉があり、それはおっかなびっくりの意である。もっとも、涙を濺ぎ心を驚かすのは、杜甫自身であるとして、「時に感じては花にも涙を濺ぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」と読む説もある。



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昨年の福島三春の桜



日本では平安の末期に京の都が大地震に見舞われ、その時琵琶湖からあふれた水で

白川を襲われた経験をしているという。鴨長明の「方丈記」に生々しい描写があって、

今次の震災に合わせてこの話を書いている人が何人かいる。平家が壇ノ浦に散った年でここでも諸行無常の諦観が世にあふれていた。日本ではこのような大自然の猛威という負の世界と向き合いながら、一方自然の生態系が美しく再生していくかたわらで辛抱強く生きることで独自の文化を形成してきたのかもしれない。それには桜は欠かすことができなかった。



(takezo)

 

 

 

 

 

 

 

 

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