前回のハンス・J・ウェグナーの代表作品紹介の続きです。
④Yチェア
前回ご紹介した「ザチェア」とYチェアはチャイナチェアを発展させたチェアです。
Yチェアは1949年、機械による効率的な生産を想定してデザインされています。
ウェグナーはカールハンセン&サン社の工場に足を運び、現場の工場の様子を確認したウェグナーが機械生産を考慮してデザインしたと言われています。
日本でも有名ですが、その著名性が認められ、2011年には外観そのものが立体商標として登録されました。
それほど馴染みがあるということですね。
その他にもカールハンセン&サン社からはCH25やCH07など、ウェグナーを代表する作品が発表されています。
⑤フラッグハリヤード
PPモブラー社から製造されているPP225。彼の作品は木材のものが多いですが、この作品はスチールをふんだんに使用しています。
1952年。彼が家族と海で休暇を楽しんでいるとき、浜辺で座り心地が良くなるように砂を掘りはじめました。ついつい熱中してしまった結果、最適な座り心地の形にたどり着きました。
メジャーを使ってそのサイズを測り、形にしたのがこのフラッグハリヤードです。
一度見たら忘れられないフォルムです。座った時にお尻が砂浜に座った時みたいにきちんと沈み込むように、お尻の部分だけロープの間隔が広く巻かれています。
脚部のカラーやロープの色味を変えるだけで印象は変わり、また付属でついてくるシープスキンを取ってプールサイドで使う、なんて贅沢なこともできます。
見た目の美しさと座り心地の良さ、両方を兼ね備えた大変魅力的な作品です。
サレスコの発足
ウェグナーの家具を各メーカーが7得意分野において家具を製作し、共同で販売する団体が1951年に発足されました。参加したのは以下の5社です。
・カールハンセン&サン社(ダイニングチェア・イージーチェア)
・アンダー・タック社(テーブル)
・APストーレン(イージーチェア)
・ゲタマ(ソファ・デイベッド)
・RYモブラー(収納キャビネット)
当時のデンマークは人口も少なく、自国だけに頼る規模ではなかったため、外貨を稼ぐのにサレスコを発足したのです。
サレスコを率いたのはアイヴァン・コル・クリステンセンです。のちにポール・ケアホルムの家具で有名になります。
実はサレスコを発足する前、カールハンセン&サン社とアンダー・タック社はコル・クリステンセンを営業として雇っていました。
コル・クリステンセンがウェグナーのデザインに惹かれ、カールハンセン&サン社の社長に紹介したそうです。意外なところでつながっていたのですね。
このようにサレスコはトップにコル・クリステンセンが就任、ウェグナーの家具を世界中に売り込み大ヒットの結果を残します。工業製品が多く出回っていたアメリカでは特に大盛況でした。
一方でウェグナーは、ザ・チェアなどの製造で有名なヨハネス・ハンセン社でもデザインをしていました。
サレスコのメンバーとはどの工場で機械量産を前提にデザインを、ヨハネス・ハンセン社では家具職人が作る家具をデザインしてギルバードデザイン展で発表する、など使い分けていたのです。
しかし、1955年。若く才能があるポール・ケアホルムと仕事をしていくことを選んだコル・クリステンセンはサレスコを離れます。それを皮切りに1960年頃からサレスコは衰退の道をたどります。
1969年にゲタマ社が脱退。テーブルをメインに製造していたアンダー・タック社が1972年に、その2年後にはAPストーレン社が倒産。
これで残ったのはカールハンセン&サン社とRyモブラー社のみとなり、事実上の解散となってしまいました。
ヨハネス・ハンセン社との協力関係もキャビネットメーカーズギルド展が消滅してしまい、薄まっていきました。
二本柱を失ったウェグナーは新たなパートナーとしてPPモブラー社を選び、前回述べたように、PPモブラー社は次々と家具製造ライセンスを取得していくことになるのです。
500脚以上の椅子を
彼は生涯において500脚以上の椅子をデザインし、椅子の神様と呼ばれていましたが「人生でたった一脚のよい椅子をデザインできるか。いやそれは到底無理な話だよ」という言葉を残しています。
まさに椅子のデザインに一生をかけた人生を凝縮したような言葉です。
ウェグナーの娘が、24時間家具のことを考えていて、私と家具とどちらが大事なのか。。と嫉妬すらしたという。
また、彼の身長と体重がデンマーク人の標準ぴったりであったことを自慢していました。彼の座り心地がまさにデンマーク人の標準的な座り心地につながると考えていたからです。
彼の椅子はまさに彼の人生そのものだったのです。